ゼロです。

淡水小物釣りの掲示板」では「仔ushisan」を名乗りました、ホームページ「淡水小物釣り」管理人の ushisan の息子です。

今日は長い文章になりますが、亡き父(ushisan)を偲ぶ文として書きたいと思います。

あの日

それは突然でした。

早朝6時頃、母が慌てた様子で寝ていた私を起こしに来ました。

父が入院している病院から連絡があり、父の呼吸が浅く命が危ない状態でありすぐに来てほしいということでした。

状況を理解するのに少し時間がかかりましたが、私はすぐに父のもとに向かう準備をして小雨の降る中原付で病院まで走りました。

到着したときには既に心肺停止の父がベッドで眠っている状態で、担当医の到着を待って死亡の診断を行うと言う状況でした。

父は自宅で口を開けて眠っていることが多々ありましたが、まさにその寝顔そのもので微動だにせず眠っていました。

いつものいびきや呼吸は聞こえませんでした。

その後、妹家族を呼び寄せる電話をしたり、親類に連絡しつつ担当医を待ちました。

担当医到着後、父の死亡が診断され、父は永き眠りにつきました。

そのあとは葬儀社に連絡をし、ドタバタと葬儀の準備が始まりました。

私はとんでもないミスをしました。

連絡する葬儀社を間違え、父が生前契約していた葬儀社と異なる葬儀社に連絡していたのです。

帰宅後、父が契約していた葬儀社に連絡すると、父が引き取られた事実がなく、軽く母とともにパニックになりながらも冷静さを取り戻し、本来の葬儀社に父を迎えてもらうことができ、事なきを得ることができました。

教訓:いくら自分では冷静だと思っていてもパニックを起こしているものである。

霊安室に安置された父は、病院で眠っていた顔とはまた異なり、口も閉じられ本当に眠っているようでした。

閉じられた口の口角が若干上がり、笑っているようにも見えました…

また、昔から趣味で釣りをしていて今年も5月までは釣りに行っていたこともあり、日焼けのせいで顔色も良く…って死人の顔色が良いなんて普通はないんですけどこういう言い方しかできなくて…

まあ、普通に眠っていて、とんとんってたたくと起きそうな、そんな表情でした。

通夜当日・午前

生前の父は大きな葬儀を望んでおらず、いわゆる「家族葬」を希望していました。

遺された私たちは当然それを知っていたので、母と私夫婦と妹夫婦、そしてそれぞれの子供たちのみで通夜当日となりました。

私と母、妹はお湯棺に立ち会うことができ、棺に入る前の父の体を洗うことができました。

思えば8月の初旬に入院してからこの日まで、父の体調は最悪でお風呂にも入れていませんでした。

最後の最後に父をお風呂に入れてあげることができて本当に良かったと思っています。

体を洗い終えた父は白装束に着替えさせてもらい、棺へと入れていただけました。

その後、通夜の会場へと運んで頂きました。

通夜

私と母、妹以外の家族は通夜の会場で初めて亡き父と対面することになりました。

通夜の会場には徒歩で行ったので到着した順番での対面となりました。

ここで軽い事件勃発。

棺の中の父の顔に小さい虫の亡骸が…

いつの間に入ったのでしょう?って入るタイミング的には棺を閉じる瞬間でしょうが、まさかこんなところに入るなんて…

ドライアイスで二酸化炭素で充満している棺の中に飛び込んだ虫さんは、まあお亡くなりになっていたのです…

葬儀社の方に丁寧に取り出していただきました。

祭壇にはあちらに行っても父の趣味だった釣りができるよう、コアユ釣りの時に使用していた愛用の釣竿とクーラーボックス、帽子とベストを飾らせてもらいました。

初めて知ったこと:家の仏教宗派

今まで気にしたこともなかったけど、家の仏教の宗派をここで初めて知りました。

私自身は宗教に対する信仰心は全くありませんので意識したこともありませんでした。

告別式当日

葬儀が終わるまでは大きな気持ちの変化はありませんでした。

葬儀を終え、棺に花を入れる際、前日に用意した木製の釣竿のおもちゃや、愛用していたスマートフォンのケース、釣りの際にかぶっていた帽子を納めました。

木製の釣竿のおもちゃを入れたのは、本物の釣竿だとグラスファイバーやカーボンが使われていて、棺に入れることが許されないものだったからです。

母は父が大切にしていた幸運のお守りと、父が生前「久しぶりに食べたいなぁ」と言っていた、母の作ったカレーライスを用意して棺に納めていました。

妹夫婦の子供たちは遠方に住んでいてなかなか会えなかったこともあり、父に向けた手紙を書いて棺に納めてくれていました。

その後、斎場へ向けて出棺するときは胸に熱いものが沸き上がり、じんわりと涙が溢れました。

父を追いかけて斎場へ向かい、斎場で最後のお別れをしました。

この時ばかりは流石にじんわりどころか、涙が溢れしばらくは止まりませんでした。

しばらく斎場で待機し収骨をさせていただきました。

帰宅、そして初七日

最近は皆さん葬儀後、そのまま初七日の法要を行う方が多いようです。

我が家もその形をとりました。

いろいろとひと段落したあと、妹夫婦は帰路につきました。

時間の流れ

父が永眠した日からの数日は、「旅立ち、そして未来へ。」と言う数日前の日記でも書いたのですが、「時が凍りつき、急速に加速し、そしてまた緩やかに流れはじめる」まさにそんな時間の流れでした。

この一連の出来事はたった3日間だったのですが、前日のことがもう数週間も前のように思えたり、今でもまだ1週間ちょっと経っただけなのに数か月も経過したようなそんな感覚です。

今は当日ほどバタバタはしていませんが、やはり遺品の整理をしている母を見たり、父が遺していた記録を確認しながらいろいろな手続きをしたりしています。

父との思い出(昔話編)

重い話は終わり、ここからは少し軽めの話です。

父には幼少の頃に釣りに連れて行ってもらい…と言うか初めて釣りに行ったのがいつなのかは記憶にありません。

恐らく記憶できないくらい幼かった頃に連れて行ってもらっていると思われます。

母曰く:父の体にひもで縛りつけられ、バイクの乗せられて連れて行ってたと

父は車の免許を持っていなかったので…って今考えたらあぶねえな…(笑)

釣り自体は恐らく幼稚園生、小学生、中学生まで恐らくずっと連れて行ってもらっていました。

頻度は…ほぼ毎週?って時期もありましたね…(笑)

それこそ簡単なウキ釣りから、ヘラブナ釣り、練りエサを使った鯉の吸い込み釣りまで渓流でするような釣り以外であれば何でもやりました。

(フライフィッシングとか、アユの友釣りとかは未経験)

ブラックバスの全盛期にはルアーやワームを使ってブラックバスを釣り、美味しいっていう噂を聞いて食べたこともありました。

父は台所に立たない人だったので、調理は基本的に母がしましたが…(笑)

最近、YouTubeとかでブラックバスを食べてみた系の動画を見ると…

いや、もう何十年も前に食べて美味しかったし、美味しいのは知っているしって感じで、この人たち遅れているな~って感じでした。(笑)

いちばん鮮明に記憶に残っているのが、72cmの鯉を吸い込みで釣り上げたときです。

私は当時中学2年生で、当時の身長の半分ほどの鯉だったことを今でも覚えています。

腰を落として体重を後ろに預けても倒れないくらい強い引きだったことも覚えています。

この鯉は釣り上げたのち、当時の父が信仰していた宗教の例祭のときに「鯉こく」として振舞われました。

その後は私も父とともにコアユ釣りに何度か行きました。

父との思い出(近年)

私が高校に行くようになってからは、私が釣りへ行くことも少なくなりました。

しかし、社会に出て〇〇年経ったのち、私と妻と子供たちを連れて私が実家に帰りました。

同居生活が始まってからしばらくして、私は親友の誘いで海に釣りに行くようになりました。

最初数年は年に1度程度、子供たちも一緒に行っていました。

子供たちが釣りに行かなくなってからは、親友と私が二人で暖かい時期に月1回程度釣りに行くようになりました。

海釣りにはまったのはこのころからで、父はそれを見て大きなクーラーボックスを私にプレゼントしてくれました。

私がはまっていたのはフカセ釣りで、メインターゲットはクロダイ(チヌ)でした。

始めた当初はメインターゲット以外の魚ばかり連れていましたが、昨年夏に初めて少し小型のクロダイを釣りました。

ただ、これはフカセではなくヘチ釣りで釣れたものでした。

フカセでクロダイをって言うのが目標だった私は数年かけて今年、ようやく6月に初めて「フカセ釣り」でクロダイを釣り上げたのです。

この時の日記は「奇跡の日帰り釣り旅行」にまとめていますのでよかったら見て頂けると嬉しいです。

この頃から父は病で辛そうで、自分で釣りに行ける状況ではありませんでした。

5月はちょこちょこと出ていたようでしたが、大好きなコアユ釣り、そしてそれを持って帰ってきて甘露煮にして食べる。

それが毎年の楽しみでした、本人は調理しませんけどね…(笑)

丁度7月の頭ごろ、父にはもう時期が終わっているから無理だよって言われていたのですが、まだまだ今シーズン食べたりないだろうって思って、コアユ釣りに行ったんです。

私は父のようにバイクで行けないので、この時は親友に車を出してもらいました。

こちらの「急な依頼、急な釣行。」で詳細は書いています。

結局この時は数釣りできず、翌週に引っ掛け釣りでリベンジすることになります。

リベンジの結果は上々で「コアユ釣りのリベンジを果たしてきた」と日記のネタになりました。

本当にこの後、急激に父の体調は悪くなっていき…今に至る訳ですが…

今はもう気持ちの整理もそれなりに出来ていて、最後に後悔しないですんだ親孝行ができたかなって思っています。

ま、全然足りませんけどね。

蛙の子は蛙

ここまで読んでくださった方ならまあ察していただけるかと思いますが…

私は釣りが大好きです。

父が好きだった釣りは、幼少期の私に刻み込まれました。

直近の私はと言うと、海へは相変わらず月1回ですが、ちょこちょこと湖南エリア(主ににおの浜)にブラックバス釣りに出かけています。

次回の琵琶湖での釣り予定はまだ未定ですが、膳所公園あたりを開拓してみようかなって思っています。

私は父ほど身軽に動ける足を持っていないので、釣りに行ける範囲も公共交通機関で無理のない範囲での移動になります。


終わりに

釣り針に外掛け結びでラインを結んだりするのも当然父に教わりましたし、自分の釣りの仕掛けくらい自分で作れるという自負もあります。

父が釣りで紡いだ縁は今も繋がっていて、とても大切なものだと思いました。

淡水小物釣りの掲示板」に父の訃報を書き込んで、そのレスを見て、改めて感じています。

今シーズンはもう終わってしまったので無理だけど、来シーズンはコアユ釣りに行って、父の仏前にコアユの甘露煮を供えたいなって思っています。

父の遺してくれた縁は、私が可能な範囲で無理せずに継ぐつもりです。

無理をしても父は喜びませんし、それは私自身が十分承知しています。

まだ準備ができておりませんので直ちに案内はできませんが、その分現状の「淡水小物釣り」と「淡水小物釣りの掲示板」は当面このままおいておきますので、引き続きご利用ください。

今まで「淡水小物釣りの掲示板」でお世話になった皆様には物足りない情報量や、交流の場となるかもしれませんが、ご案内できるようになり次第案内させていただきますので、その時はどうぞ引き続きよろしくお願いしたいと思います。